2007年09月01日

丙子椒林剣

平成19年9月1日
日本刀の祖先は大陸から蕨手や無反りの長刀が入ってきましたが恐らく研磨されていない状態か簡単に切れる為として軽く研磨が施されていたと私は考えるのです。
著名は丙子椒林剣は学者の多くは海外から伝えられたという学説がありますがそう簡単に断定出来るとは考えられません。以前国宝展で私はこれらの刀剣をじっくりと見る事が出来ました。
特に丙子椒林剣の地鉄の美しさは小板目が実に良く詰んで微塵の地沸が付き細直刃の品格の良さは無類で製作段階において技術の結晶が集中され出来上がったのです。
中国では研磨技術は当時それほど必要無かったと考えるのが自然で微細な部分迄配慮しなかったと思います。
したがって大胆に推論すれば丙子椒林剣は日本国内で製作されたと思われるのです。刀身に彫られた文字は
中国で研磨技術が発展しなかった理由は戦闘方法が全く異なるからといえます。
切れ味時さえ良ければ錆びていても良く何万人という兵士が戦う訳ですから研磨する必要はなくそれぞれが積み上げられた刀剣をもって戦いに出たのです。
日本は狭い国土で意外と地域社会が明確に存在しあまりそれぞれが交流されなかったと思います。
その為刀剣はそれぞれの地域社会で独特な製造方法で製作されその特徴はかなり壊れたとはいえ現在にも伝播されております。
例えば九州は九州の特徴を備えた刀剣が製作され5家伝と言われる備前伝、大和伝、美濃伝、相州伝、山城伝が大まかに後世の人々によって区枠されております。
刀の茎には製作者が祈りながら一心不乱に刀を製作し出来の良い刀に銘を刻み研磨された刀にそれぞれ拵を製作し小道具は華美ではなく品位のある図柄が入れられ注文者の貴族に渡されました。
貴族から武家社会に移行してもその習慣は継承され更に侍文化の中では厳しく日本刀を保有する者達の礼儀作法が確立していたのです。士農工商の中で侍だけが刀の保有を許され侍としての誇り、象徴となったのです。現在日本には第二次世界大戦で敗北したのも関わらず数多くの日本刀が残されている大きな原因は侍が日本刀を武士の象徴として製作された当時から錆びさせず次の世代へ手渡していったからなのです。
日本刀は大変脆弱な面を持ち合わせております。戦えば振りかざされた刀を受けただけで大きく刃こぼれが生じ使い物にならなくなると筈です。考えられない程に研磨がなされ地鉄の鍛えが判るように刃紋の働きが判るように更に鎬筋や小鎬を綺麗にそりを付ける方法は未だ世界の武器にはありません。
錆びさせず大切に保管を続けて現在の数多くの刀剣が残された私たち日本人の誇りがあるのです。
次に続く
posted by 日本刀と刀装具の葵美術 at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本刀講座 from社長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月19日

日本刀が出来るまで

今後積極的にブログを書いていきたいと思います。
平成19年 8月 19日
あくまで私見ですので異論、反論、オブジェクションとあると思いますが肩肘張らず目くじら立てず寛大なる暖かな目で苦笑しつつ読んで頂ければ幸いです。
文章はあちらこちらへ脱線しますが宜しくご了承下さい。

まず日本刀が出来るまでにつきまして記載したいと思います。

世界の4大文明はエジプトのナイル川流域、ペルシャのチグリスユーフラテス川流域、インドのインダス川流域、中国の黄河流域と小学校時代に勉強したことがあります。 長い期間青銅器文明を経て四大文明発祥の地で偶然か故意かはわかりませんが鉄が製作されました。
鉄は青銅器と異なり強度の面で全くことなる製品でした。 更に熱した鉄を水に入れると考えられない強度をもった鋼が出来ることが発見され野火の如くそれらの知識は世界へと流出されていきました。
鉄の文化は武器に車輪に農機具に更に船舶、建築物に計り知れない強度や生産性を上げる事が可能となり都市の発展の大きく貢献する事となりました。
特に刀剣等の武具には即座に影響が顕著となり青銅器文明を駆逐する事となりました。
歴史上の中で最も画期的な出来事といえます。特に刀剣によって自ら守り又他を征服する事で自ら巨大な国を保持又は作り上げてゆく事は極めて重要な事であり切磋琢磨研究されたに違いありません。
青銅器ばかりでなく鉄器の文化は中国、朝鮮を経て日本に伝わりました。 日本の遺跡には数多くの刀剣が発見されます。 特に蕨手、古剣がその代表でありますがその後国内で改良され日本刀が日本独自に思考として文化として発展して行く事となります。 中国から伝えられた刀剣は恐らく研磨されていない刀剣であったと考えられます。
中国、朝鮮、日本におきましても刀剣は極めて珍重されたのに違いがありません。
貢物として彼らは刀剣を宝石で飾りぬき金銀、真珠、ダイヤ、ルビー、サファイア等ありとあらゆる宝石で刀剣の拵えを飾り立て王様に貢いだのに違いがありません。  貢がれた品物を見ながらその豪華な拵えに驚き感激の笑みを浮かべやがて奥歯の金歯が見える位に満面の笑顔を浮かべたに違いありません。
日本に伝えられた刀剣は当時大陸と同様に宝石を飾り立てようと考えたと思われますが国内では金銀、勾玉位しか宝石と呼ばれる様な品物は無く自然刀剣と研磨する事でおおよう王様を喜ばさなければならなかったのかも知れません。 自然多くの刀剣製作者は発注者の要望を受け出来るだけ瑕のない地金の良い品物に神経を集中し刀剣をより素晴らしく研磨する方法が研究され製作されたと考えるのです。
日本には宝石は当時考えられない程高価で見ることすらなかったと考えられます。
幸い研磨に必要な砥石は京都を中心としてふんだんにあり研磨技術が鍛えられ多くの貴族により刀そのものの出来、鑑定眼が養われていったに違いがありません。又日本は国土が狭く同一の思考が伝播し全ての貴族社会の中で日本刀の価値観が出来上がったと考えます。

次回に続く。
posted by 日本刀と刀装具の葵美術 at 13:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本刀講座 from社長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

日本刀の将来 後編 

日本刀の将来についての一考 後編

残念ながら日本では銃刀法で、無登録の日本刀の売買は元より、保持する事も厳しく禁じられています。
現在日本には、数多くの日本刀が無登録のまま、秘密裏に保持されています。警察に発見届けを出すと、処罰されると考え、そのままの状態になっているのが現状です。日本刀は素材が鉄なので、そのままですと錆びてしまう運命ですから、何とかしなければならないでしょう。

数年前に赤羽刀(戦後没収され保管されていた刀)が、日本国内の博物館に寄贈されましたが、愕然としたのはその品物の最悪な保存状態でした。
殆どの日本刀は錆びるままに、その間誰も手入れをしなかったのです。文化庁、また文部省は一体何をしていたのでしょうか?

お祭り民族とも言われる日本人は、江戸時代に素晴らしい文化財を製作してきました。
例えば版画や根付は、町人文化が生み出した文化ですが、数多くの作品が海外に持ち去られ、今の若者に根付と聞いても理解出来ないことでしょう。
日本の若者が真剣に勉強しようと考えても、海外に行くしかありません。印籠、蒔絵も同様です。

海外での需要によって、日本刀や小道具や拵え等は日本から、より流出していくでしょう。
刀剣博物館に、皆さま行ったことがあるでしょうか。見学に来る70%以上は外国人です。
今後 日本刀が、どのような経過をたどるかは明白です。
ひょっとすると、海外で日本刀を製作するようになるかもしれません。

日本の法律では刀工は(国によって製作を認可された方々)月間2本までの制作と決められているので、数多く製作できません。
海外で製作された日本刀は、出来が良くても日本国内に持ち込むことは出来ませんが、今後海外で製作された日本刀が、海外で取引されると私は考えます。

今の日本では、日本刀を収集していると言えば、マニアックな人と思われるでしょう。
素晴らしい文化財を製作しながら、飽きっぽい、又は忘れっぽい性質ゆえか、色んなものを捨て去ってきた私達日本人ですが、
どうか日本刀を通して、日本人として誇りと、武士道精神の継承を願わざるをえません。
それによって葵美術が儲かるという事ではありませので。。。
posted by 日本刀と刀装具の葵美術 at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本刀講座 from社長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月06日

日本刀の将来 前編

日本刀の将来についての一考  前編

日本刀は数々の変遷を経て、現代に継承されてきました。
日本刀は戦争と平和とで、需要と供給が大きく異なってきます。
その証拠に室町時代末期に製作された日本刀が、現在でも多量に現存されております。戦国時代膨大な需要があったからです。

その後、刀狩が行われ、数多くの刀剣が一部廃棄されたと考えます。
江戸時代になると、平和な時代へと移行し、特に元禄時代は刀の需要は激減してゆきます。
幕末の風雲急を告げる時代では、日本刀の需要は盛り返しますが、明治になると一転、廃刀令が敷かれ日本刀は激減し、又製作者である刀工は廃業の憂き目に遭いました。 

明治の半ばになりますと富国強兵の時代となり、数多くの刀工が活躍しはじめ、その動きは大正へ、
更に昭和に入り戦前、戦時中は数多くの刀工が日本各地で活躍し、名の知られない刀工までが日本刀の製作を行いました。
しかし戦争に敗れた日本は、武装解除となり、一説によれば50万振りとも100万振りともいわれる日本刀が海外もちさられる事となりました。

戦後、日本刀の業者が、海外で保有されていた日本刀の輸入を初め、私もその一人ですが買い戻しを行いました。
今でも鮮明に覚えておりますが、アメリカの業者の自宅を訪れた時、ビリヤードの台に山と詰まれた日本刀がありました。
彼は全米で日本から持ち去られた日本刀を自家用機で買い付け、私達日本人に売却していたのです。

その内に米国でもヨーロッパでも愛刀家や収集家が育ち始め、各地で交換会が行われ、
より質の高い日本刀の収集がはじまりました。 
米国では故コンプトン博士は、特に著名な収集家で日本に無償で国宝を返還した事で知られております。
コンプトンコレクションがそれです。

最近は海外に多くの収集家がおり、良質な日本刀を求めて来日し、購入していくようになりました。
インターネットにより、業者を経ないで、収集家自らが販売するようになった事もあり、米国内で急激に品物の不足がでてきました。
日本刀に対する目利きが増えた事も一因でしょう。
この傾向は一層高まっていくに違いありません。 →後半へ続きます
posted by 日本刀と刀装具の葵美術 at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本刀講座 from社長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月31日

日本刀の魅力とは

日本刀に魅せられる理由は人さまざまです。日本刀の体配の良さ、地金の美しさ、あるいは拵えの美しさに、魅力を感じる人も多いと思います。
自分なりに、その魅力を語ってみたいと思います。

日本刀は、製作地での伝統にのっとって、備前伝、相州伝、美濃伝、大和伝、山城伝、そのほか地方の様式の刀剣がそれぞれ長期間継承されていきました。

ですから、銘の部分を隠しても、地方や製作者の名前を当てる事も出来ます。
鑑賞される人々の多くは、出来が良いか悪いかをも鑑賞し、出来の良い日本刀に、鑑賞者が同じ認識を持つ事になります。これは現代刀にもいえます。
また厳しい鑑識眼によって、刀工が血の滲む努力をしながら製作した思いも、現代に伝わってくるのです。

先に記載しましたように、平安時代以前から、日本刀を鑑賞する技術がすでに確立していったのですが、その後、武士が日本刀を持つ習慣を持ち、長い年月、侍の誇りの象徴として継承されていったのだと思います。

静かに日本刀を鑑賞してみます。これを持っていた侍はどのように苦難を乗り越えていったのかを、思いを巡らしてみてください。
すべての気持ちを消し去る一時を持ち、勇気を与えられ、現代のストレス社会で、困難や障害を、乗り越えていける力になるかも知れません。
海外の愛刀家が増えることも喜ばしいことですが、私達日本人こそが、このような類稀なる文化財を、将来に渡って尊重する必要があるのではないでしょうか。
posted by 日本刀と刀装具の葵美術 at 02:22| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本刀講座 from社長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月23日

日本刀の起源について

当社では皆様方との交流を促進するため、ブログを書き続け、充実させていこうと考えております。
異論、反論、オブジェクションと色々あろうかと思いますが、肩肘はらずに気楽に読んで頂ければ幸いです。なお文章能力はございませんので、気づくまま文章の羅列であるとお思い下さい。

まず第一回は
1:日本刀はどのような経路を経て日本に定着したのか?

 長い青銅器の時代が続き、世界の4大文明がエジプトのナイル川流域、メソポタニア、インドのインダス川流域、中国の黄川流域のいずれかで、偶然かどうかは知りませんが鉄器が生産されました。この鉄器は高温の状態で急冷する事で鋼に変わる事が発見され、野火の如く世界へと広がっていきました。この鉄器の発明は当時の戦闘を一変させ農機具、漁業、船舶の発達に限りない貢献をしました。
 中国、朝鮮を経てやがて日本にも鉄器がもたらされました。当初は蕨手と言われる簡単な鉄で、製作された武器であったようです。
中には一部刃紋らしき部分があり、焼き入れ技術も完成していたと考えられます。それらの刀剣類はその殆どが未研磨であったろうと推測されます。
 
当時エジプト、ペルシャ、中国、インドでは、刀剣は武器でありましたが、献上品として王様や強力な部族の王には貢ぎ物として利用されました。刀剣というよりは拵の装飾品が貢ぎ物として好まれたのです。
拵えは金銀、ダイヤ、エメラルド、真珠、ルビー、サファイア等で豪華に飾られ、献上されたに違いありません。献上された拵えを見た王様は満面の笑みを浮かべ、奥歯の金歯が光る程口を開け満足したことでしょう。

 日本刀の発達は、日本に宝石がなかった事に大きな理由があろうと大胆に推測します。残念ながら日本には主たる宝石がありません。せいぜい勾玉、金銀、といった所です。そのような事情があって、刀剣を研磨して、その出来の良さを競い合い、それら刀剣を献上する方法が取られたに違いありません。日本には良質な砥石があり、微細に研磨する事で刀身に瑕が出ない様に刀を製作し、極力奇麗に研磨をする習慣が出来上がっていったのではないかと思います。

 以前国宝展に2回見にいった事があります。私が若き頃、私国立博物館で日本刀の展示会に行き、展示されている上古刀を間近で見た事があります。
特に丙子椒林剣はその見事な地鉄は柔らかく品格があり、細直刃出来に小足が入る素晴らしい作でした。多くの方は中国、又は朝鮮から渡来したと考えておりますが、このような地鉄を製作する為には高い研磨技術が伴わなければ出来ません。日本刀を研磨して鑑賞するという習慣があったからこそ、このような美しい地金が作り出せたのでしょう。私見ですが、この刀は日本で製作されたと推察します。

 丙子椒林という文字が刀身に彫刻されていますが、未だ正確な意味はわかっておりません。子宝に恵まれる事を祈念して製作されたという説もあります。推測の中で中国、又は朝鮮製と断定は出来ません。
日本という狭い国であったゆえに、刀剣を研磨するという類稀なる習慣が確率しました。一方、中国では刀の出来云々ではなく、多量に生産し、多人数での戦闘が行われ、刀剣を研磨するなどとは考えもつかなかったのではないでしょうか。

 研磨技術はかなり専門的となり、微細な部分まで研磨しなければなりません。数多くの刀剣を研磨し競い合う中で、刀匠も出来の良い刀を製作し、銘を茎に刻む習慣が同時に確立したのです。したがって丙子椒林剣は、最上の玉鋼で祈るように製作され、現代でも我々の胸を打つ最高傑作品として評価されているのです。
posted by 日本刀と刀装具の葵美術 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本刀講座 from社長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする